目次
…。
倉橋先生。
ちょっといいですか?
お、甚太郎君、どうしたんだい?
古文を勉強しているのですが、
なかなか上達しません。
どうしたら、すらすら
読めるようになるでしょうか?
それはよくある悩みですね。
私も藩校の門下生に
よく聞かれます。
その質問に私は、
藤原定家と本居宣長の言葉を
用いて解答しています。
藤原定家は百人一首を
選集した人で、
本居宣長は係り結びの法則を
立証した人ですよね?
よく知ってますね。
その二人が言うアドバイスが、
古文上達の基礎となりますので、
特別に教えてあげましょう。
藤原定家の言葉→古典作品を師とするべし
鎌倉時代の歌人・古典学者の藤原定家は、和歌の勉強法について次のように述べています。
『詠歌大概』
【本文】
和歌無師匠。只以旧歌為師。染心於古風、習詞於先達者、誰人不詠之哉。
【書き下し文】
和歌に師匠無し。只旧歌を以て師と為す。心を古風に染め、詞を先達に習はば、誰人か之を詠ぜざらんや。
【現代語訳】
和歌に師匠はいない。ただ昔の歌を師とするのだ。心を昔の雅な趣に染めて、言葉を先人の作品から習えば、誰が和歌を詠むことができないだろうか。いいや、どんな人でも和歌を詠むことができる。
『詠歌大概』は、和歌の本質や和歌を作る際の心構えを述べた歌論書で、この箇所は、和歌の勉強法について述べたものです。
この勉強法は、和歌だけでなく、古文を読解する際にも、通じます。
中学や高校で、古文を勉強したけれど、大学入試の問題が解けない、模試の偏差値が上がらないという人は、「只旧歌を以て師と為す。心を古風に染め」という箇所が足りてないことがほとんどです。
「旧歌を師とする」ということは、「古文の文章自体を師とする」ということであり、古文をたくさん読み、多くの師と接することを意味します。
定家は、多くの作品に接することで、自然と心が昔の雅な趣に染まり、昔の言葉も自然と覚えて、誰でも和歌が詠めるようになると主張しています。
つまり、作品にたくさん接することが古文上達のカギであり、それを無視した上達法はあり得ません。
このことについては、江戸時代の国学者の本居宣長も同じことを主張しています。
本居宣長の言葉①→古典作品をよく読むべし
『うひ山ふみ』
【本文】
いにしへ人の風雅(みやび)のおもむきをしるは云々(うんぬん)、すべて人は、雅(みやび)の趣をしらでは有ルべからず。これをしらざるは、物のあはれをしらず、心なき人なり。かくてそのみやびの趣をしることは、哥をよみ、物語書などをよく見るにあり。然して古ヘ人のみやびたる情をしり、すべて古への雅(みやび)たる世の有さまを、よくしるは、これ古の道をしるべき階梯也。
【現代語訳】
昔の人の風雅の趣を知ることについては、すべての人は、雅な趣を知らないで、生きていることはできない。これを知らないのは、物のあわれを知らず、心のない人である。このようにして雅の趣を知ることは、和歌を詠み、物語などをよく見ることである。こうして昔の人の雅な心情を知り、いっさいの昔の雅な世界の有様をよく知ることは、古典の道を知ることができる階段ともいえる。
『うひ山ぶみ」は、古典の勉強の心構えや態度について説いた国学の入門書ですが、今回取り上げた箇所は、昔の人の雅な趣を知るためにはどうすればよいかということについて述べて所です。
傍線を引いた所にある通り、物語をよく見ることが重要で、これは定家が主張していることと同じです。また、宣長は別の作品でも同じことを言っています。
『排蘆小船(あしわけおぶね)』
【本文】
書物によくよく心を入れてよみならへば、自(おのずか)ら我物になる也。倭文章とても、さのみ難きことにあらず。古の書を心を入れてよくよく見れば、そのことばみな我物になりて、今日文章にもかき用ひらるることなり。
【現代語訳】
書物によく自分の心を入れて読み、学習すると、自然と文章が自分の物になるのである。古典の文章であっても、それほど難しいことはない。昔の書を心を入れてよく見ると、そこにある言葉がすべて自分の物になって、今日の日常の文章にも用いることができるのである。
『排蘆小船』は、宣長の歌論書ですが、作品を真剣に読むと、自然と自分のものになり、古文であってもたいして難しいことはないと言っています。
本居宣長の言葉②→分からない所があったら飛ばすべし
『うひ山ふみ』
【本文】
初心のほどは、かたはしより文義を云々(うんぬん)、文義の心得がたきところを、はじめより、一々に解せんとしては、とどこほりて、すすまぬことあれば、聞えぬところは、まずそのままにて過すぞよき。殊(こと)に世に難き事にしたるふしぶしを、まづしらんとするは、いといとわろし。ただよく聞えたる所に、心をつけて、深く味ふべき也。
【現代語訳】
初心者の時は、文章の意味ということについて、その意味が理解できないところを、片っぱしから細かく理解しようとするのは、逆に勉強が滞って、進まなくなるので、分からないところは、とりあえず、そのまま読み飛ばすのがよい。特に世間で難しいとされている部分を、最初に知ろうとするのは、とてもよくない。まず、よく分かる文章に、集中して、文章を深く味わうべきである。
上で述べていることは、古典の受験勉強をする際、ありがちな現象と言えます。
細かい点で分からない所があり、そこを完璧に理解するため、電子辞書や文法書などでいちいち調べて時間がすごくかかっていまう。
そもそも昔の人は、文法事項についてあまり気にしておらず、活用形や言葉の使い方が、間違っていることが多々あります。
そこにいちいち気にしていると、古典が嫌いになってしまうので、分からないところはさらっと読み飛ばし、その文章全体の内容が分かるかということについて、神経を集中させることがよいと述べています。
本居宣長の言葉③→目標は高く設定すべし
『うひ山ふみ』
【本文】
志を高く大きにたてて云々(うんぬん)、すべて学問は、はじめよりその心ざしを、高く大きに立て、その奥を究めつくさずはやまじとかたく思ひまうくべし。此志よわくては、学問すすみがたく、倦怠(うみおこた)るもの也。
【現代語訳】
志(目標)を高く大きく立てるということについては、すべての学問は、始めからその志(目標)を高く大きく立てて、その根底までを極めつくすまでは止めないと固く思いめぐらすのがよい。この志(目標)が軟弱であっては、学問も進みにくく、嫌になり怠けるものである。
上の文章にあるように目標が低いと、勉強もあまり進まず、嫌になりやすくなるので、目標は高く掲げましょう。
まとめ
藤原定家と本居宣長の言葉を踏まえた古文の勉強法は以下の通りになります。
①古文に慣れる作品をたくさん読む。
②読む時は真剣に集中して読む。
③読んでいて分からないところがあっても、とりあえず読み飛ばす。
④目標を高く設定する。
そして、ここからは私のアドバイス
・嫌いにならないために読む作品は短いものがよく、短編の物語や説話などのストーリーがあるものを学習しましょう。
いかがでしたでしょうか。
私も古典研究者の端くれですが
正直この方法がすべてであると
考えています。
当たり前のことのようですが、
偉大な先人が主張していると
説得力が全然違います。
ありがとうございました。
今後、この方法で
勉強してみます。
ところで、甚太郎君、
手に持っているのなあに?
うりです。
これからむいて食べます。
先生の分はありません。
取らないよ~。
子どもじゃないんだから。
家に帰ってお母さんに
むいてもらいなさい。
【市場通笑作鳥居清長画『桃太郎元服姿 』(安永八年刊)を参考に挿入画を作成】