・現代語訳が分かります。
・単語の意味が分かります。
・テストが聞かれる重要箇所が分かります。
では、『舞姫』の第五段落を見ていきましょう。
前回の解説はこちら。
『舞姫』本文(第五段落)
ああ、なんらの悪因【注1】ぞ。この恩を謝せん【注2】とて、自ら我が僑居(きょうきょ)【注3】に来し【注4】少女は、ショオペンハウエル【注5】を右にし、シルレル【注6】を左にして、終日兀坐(こつざ)する【注7】我が読書の窓下に、一輪の名花を咲かせてけり【注8】。このときを初めとして、余と少女との交はりやうやくしげくなりもてゆきて【注9】、同郷人にさへ知られぬれば【注10】、彼らは速了【注11】にも、余をもつて色を舞姫【注12】の群れに漁する【注13】者としたり。我ら二人の間にはまだ痴騃(ちがい)なる【注14】歓楽のみ存したりし【注4】を。
その名を指さんははばかり【注15】あれど、同郷人の中に事を好む人【注16】ありて、余がしばしば芝居に出入りして、女優と交はるといふことを、官長のもとに報じつ【注17】。さらぬだに【注18】余がすこぶる学問の岐路に走るを知りて憎み思ひし【注4】官長は、つひに旨【注19】を公使館に伝へて、我が官を免じ【注20】、我が職を解いたり。公使がこの命を伝ふるとき余に言ひし【注4】は、御身【注21】もし即時に郷に帰らば【注22】、路用を給すべけれど【注23】、もしなほここに在らんには【注24】、公の助けをば仰ぐべからず【注25】とのことなりき【注26】。余は一週日の猶予を請ひて、とやかうと【注27】思ひ煩ふうち、我が生涯にて最も悲痛を覚えさせたる二通の書状に接しぬ【注28】。この二通はほとんど同時に出だしし【注4】ものなれど、一は母の自筆、一は親族なる某が、母の死を、我がまたなく慕ふ母の死を報じたる文なりき【注26】。余は母の書中の言をここに反復するに堪へず、涙の迫りきて筆の運びを妨ぐればなり。
余とエリスとの交際は、このときまではよそ目に見るより清白なりき【注26】。彼は父の貧しきがために、充分なる教育を受けず、十五のとき舞の師の募りに応じて、この恥づかしき業を教へられ、クルズス【注29】果てて後【注30】、ヴィクトリア座に出でて、今は場中第二の地位を占めたり。されど詩人ハックレンデル【注31】が当世の奴隷と言ひし【注4】ごとく、はかなきは舞姫の身の上なり。薄き給金【注32】にてつながれ、昼の温習【注33】、夜の舞台ときびしく使はれ、芝居の化粧部屋に入りてこそ紅粉【注34】をも粧ひ、美しき衣をもまとへ、場外にては一人身の衣食も足らずがちなれば、親はらから【注35】を養ふ者はその辛苦いかにぞや【注36】。されば彼ら【注37】の仲間にて、賤しき限りなる業【注38】に堕ちぬ【注39】はまれなりとぞいふなる【注40】。エリスがこれをのがれし【注4】は、おとなしき性質と、剛気ある父の守護とによりてなり。彼【注41】は幼きときより物読むことをばさすがに【注42】好みしかど、手に入るは卑しきコルポルタアジュ【注43】と唱ふる貸本屋の小説のみなりし【注4】を、余と相知る頃より、余が貸しつる書を読み習ひて、やうやく趣味をも知り、言葉のなまりをも正し、いくほどもなく余に寄する文にも誤字少なくなりぬ【注28】。かかれば【注44】余ら二人の間にはまづ師弟の交はりを生じたるなりき【注45】。我が不時【注46】の免官を聞きし【注4】ときに、彼は色を失ひつ【注47】。余は彼が身の事にかかはりし【注4】を包み隠しぬれど、彼【注41】は余に向かひて母にはこれを秘めたまへ【注48】と言ひぬ【注28】。こは母の余が学資を失ひし【注4】を知りて余を疎んぜん【注49】を恐れてなり。
ああ、詳しくここに写さんも要なけれど、余が彼を愛づる心のにはかに【注50】強くなりて、つひに離れがたき仲となりし【注4】はこの折なりき。我が一身の大事は前に横たはりて、まことに危急存亡の秋なるに、この行ひありし【注4】を怪しみ、また誹(そし)る【注51】人もあるべけれど、余がエリスを愛する情は、初めて相見し【注4】ときより浅くはあらぬ【注52】に、今我が数奇【注53】を憐れみ、また別離を悲しみて伏し沈みたる【注54】面に、鬢の毛の解けてかかりたる【注54】、その美しき、いぢらしき【注55】姿は、余が悲痛感慨の刺激によりて常ならず【注56】なりたる【注54】脳髄を射て、恍惚(こうこつ)【注57】の間にここに及びし【注4】をいかにせん【注58】。
『舞姫』語句の意味(第五段落)
意味 | |
1 悪因 | 悪い因果。 |
2 謝せん | お礼しよう。「ん」は意志の助動詞。 |
3 僑居 | 下宿。 |
4 し | 過去の助動詞。 |
5 ショオペンハウエル | ドイツの哲学者。 |
6 シルレル | ドイツの詩人「シラー」。 |
7 兀座する | じっと座っている。 |
8 咲かせてけり | 咲かせてしまった。「てけり」は完了の助動詞+過去の助動詞。 |
9 しげくなりもてゆきて | しだいに頻繁になっていって。 |
10 知られぬれば | 知られてしまったので。「れ」は受身の助動詞。「ぬれ」は完了の助動詞。 |
11 速了 | 早合点。 |
12 舞姫 | 踊り子。 |
13 漁する | 戯れる。あさる。 |
14 痴騃なる | たわいない。 |
15 はばかり | 配慮・遠慮。 |
16 事を好む人 | もの好きな人。 |
17 報じつ | 報告した。「つ」は完了の助動詞。 |
18 さらぬだに | そうでなくてさえ。 |
19 旨 | そのこと。 |
20 免じ | 罷免して。 |
21 御身 | あなた。 |
22 帰らば | 帰るならば。 |
23 路用を給すべけれど | 旅費を支給するだろうが。「べけれ」は推量の助動詞。 |
24 在らんには | 残るようなときは。「ん」は婉曲の助動詞。 |
25 仰ぐべからず | もとめることはできない。「べから」は可能の助動詞。「ず」は打消の助動詞。 |
26 なりき | であった。「なり」は断定の助動詞。「き」は過去の助動詞。 |
27 とやかうと | あれこれと。 |
28 ぬ | 完了の助動詞。 |
29 クルズス | 課程。 |
30 果てて後 | 終えた後。 |
31 ハックレンデル | ドイツの詩人・小説家。 |
32 給金 | 給料。 |
33 温習 | おさらい。 |
34 紅粉 | 化粧。 |
35 はらから | 兄弟。 |
36 いかにぞや | どれほどであろうか。「や」は係助詞の疑問。「や」の後に「あらん」が省略されている。 |
37 彼ら | 彼女たち。舞姫たちのこと。 |
38 賤しき限りなる業 | 卑しいかぎりの行為。売春のこと。 |
39 堕ちぬ | 堕ちない。「ぬ」は打消の助動詞。 |
40 なる | ~そうだ。伝聞の助動詞。 |
41 彼 | 彼女。ここではエリスを指す。 |
42 さすがに | やはり。 |
43 コルポルタアジュ | 貸し本の行商のこと。 |
44 かかれば | こういうことなので。 |
45 生じたるなりき | 生まれたのであった。「たる」は完了の助動詞。「なり」は断定の助動詞。「き」は過去の助動詞。 |
46 不時 | 思いがけない。 |
47 色を失ひつ | 顔色が青ざめた。「つ」は完了の助動詞。 |
48 たまへ | 尊敬語の命令形。 |
49 疎んぜん | 嫌うようなこと。「ん」は婉曲の助動詞。 |
50 にはかに | 急に。 |
51 誹る | 批難する。 |
52 あらぬ | ない。「ぬ」は打消の助動詞。 |
53 数奇 | 不運。 |
54 たる | ~している。存続の助動詞。 |
55 いぢらしき | かわいらしい。 |
56 常ならず | 普通でない。 |
57 恍惚 | うっとりしている。 |
58 いかにせん | どうしようもない。 |
『舞姫』現代語訳(第五段落)
ああ、何の悪い因果か。この恩にお礼をしようと、みずから私の下宿に来た少女は、ショオペンハウエルの本を右に置いて、シルレルの本を左に置いて、一日中じっと座っている私の読書の窓のそばに、一輪の名花を咲かせてしまった。このときを始まりとして、私と少女との付き合いはしだいに頻繁になっていって、同郷の留学生にまでも知られてしまったので、彼らは早合点して、私を「欲情を舞姫の群れで取り漁るもの」とした。我ら二人の間にはまだたわいない楽しみだけがあったのだが。
その名前を出すのは配慮するが、同郷の留学生のなかに、もの好きな人がいて、私がよく芝居に出入りして、女優と付き合うということを、官長のもとに報告した者がいた。そうでなくてさえ私がずいぶん学問の岐路を走るのを知って好ましくないと思っていた官長は、ついにそのことを公使館に伝えて、私の官職を罷免して、私の職務を解いてしまった。公使がこの命令を伝えるときに私に言ったのは、「あなたがもしもすぐに日本に帰ったら、旅費を給付するでしょうが、もしもこのままここにいるなら、政府の援助をもとめることはできない」とのことであった。
私は一週間の猶予をお願いして、あれこれと思い悩むうち、私の生涯でもっとも悲痛を感じさせた 2 通の手紙を手にした。この 2 通はほとんど同時に出したものだけれど、ひとつは母の自筆で、もうひとつは親族の某が、母の死を、私がこの上なく慕う母の死を知らせた手紙であった。私は母の手紙のなかの言葉をここにくり返すのは堪えられない、涙が迫ってきて筆の運びを妨げになるのだから。
私とエリスの交際は、このときまで他の人が見るよりも清廉潔白であった。彼女は父が貧貧乏であったため、充分な教育を受けず、15 才のときに踊りの先生の募集に応じて、この恥ずかしい技術を教えられ、その課程が修了した後、ヴィクトリア座からデビューして、今は劇場の中で二番目の地位を占めている。しかし、詩人のハックレンデルが「現在の奴隷」と言ったように、たよりないのは舞姫の身のうえである。少ない給料でつながれ、昼の踊りのおさらい、夜の舞台ときびしく使われ、芝居の化粧部屋に入って化粧もほどこし、美しい衣装も身にまとうが、劇場の外では自分自身の衣食も不足がちなので、親兄弟を養う者は、その苦しみはどれほどであろうか。そうであるので、彼女たちの仲間で、卑しいかぎりの行為(売春)に堕ちない者はまれであると言うそうだ。エリスがこれから逃れたのは、分別ある性質と、豪胆な父の守護によってである。彼女は幼い頃から本を読むのがやはり好きだったが、手に入るのは下品な「コルポルタアジユ」という貸本屋の小説ばかりであったが、私と知り合った頃から、私が貸した本を読み習って、しだいに趣味も知り、言葉のなまりも正し、まもなく私に送る手紙にも誤字が少なくなった。こういうことなので、私たち二人の間には、まず師弟の交流が生まれたのであった。私の思いがけない免職のことを聞いたときに、彼女は顔色が青ざめた。私は彼女の身のことにかかわったことを包み隠したけれど、彼女は私にむかって「母にはこのことを内緒にして下さい」と言った。これは母が、私が留学中の資金を失ったことを知って、私を嫌うようなことを恐れたからだ。
ああ、詳しくここに書き記すのも必要でないけれど、私が彼女を可愛がる心が急に強くなって、ついに離れがたい仲となったのはこのときであった。私の一身の大事は目の前に横たわって、ほんとうに危機が迫って生きるか死ぬかのときであったが、この行いがあったことを怪しみ、また非難する人もいるだろうが、私がエリスを愛する気持ちは、初めて出会ったときから浅くはならずに、今、私の不運を憐れみ、また別離を悲しんで伏せて沈む顔に、束ねた髪の毛が解けてかかっている、その美しい、かわいらしい姿は、私が悲痛感慨の刺激によって普通でなくなっている脳髄を貫いて、うっとりしている間に、ここに及んだことはどうしようもないのだ。
『舞姫』第五段落重要箇所
いかがでしたでしょうか。
第五段落で特に重要な箇所は次の通りです。
・エリスとの出会いを「悪因」と言っているのはなぜでしょう?
→結果としてエリスを精神的に病ませ、現在の自分も苦しませる出会いとなってしまったから。
・「このとき」とはいつを指しているでしょう?
→免官されて、しかも母の死の手紙が届いたとき。
・「まことに危急存亡の秋なる」とは、どのような状況でしょう?
→官職を罷免されてこのまま日本に帰れば汚名を負い、ベルリンに留まるにしても学費の工面も分からない立場で、しかも最愛の母を亡くした悲しみにくれている危機的な状況。
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