目次
こんな夜遅くに
どうしたんですか?
サルでも分かるように
教えてくれませんか?
分かりました。
おサルさんでも分かる
教えてくれませんか?
了解!
おウマさんでも分かる
教えてくれませんか?
とにかく教えて下さい。
敬意の方向とは
なぜこの問題が出されるのかというと、出題された文章の中に会話文や手紙文、心内表現(心の中で思ったこと)などがあると、誰からの所が変わって、設問として聞きやすいからです。
通常、地の文(文章の中で会話文以外の説明や叙述の箇所のこと)では、誰からの所は、基本的に作者(語り手)となるので、問題でわざわざ聞く必要がありません。
ですが、会話文などが文章に入ってくると、誰からの所は、作者(語り手)ではなくなり、その発言ごとに変わってきます。そのため、問題として出題されることになります。
誰から誰にについて表でまとめると次の通りです。
誰から | 誰に | |
地の文 | 作者・語り手
|
①尊敬語なら→動作をする人に対する敬意
②謙譲語なら→動作を受ける人に対する敬意 ③丁寧語なら→読者に対する敬意 |
会話文・手紙文・心内表現 | 会話文→発言している人
手紙文→手紙を書いた人 心内表現→心の中で思った人
|
④尊敬語なら→動作をする人に対する敬意
⑤謙譲語なら→動作を受ける人に対する敬意 ⑥丁寧語なら→発言を聞いている(読者)に対する敬意 |
では、上の表で番号が付いている所の例文をそれぞれ確認しましょう。
①動詞が尊敬語で、作者(語り手)から動作をしている人に対する敬意の例文
この帝失せ給ひぬ。(『大和物語』「苔の衣」)
【現代語訳 この帝はお亡くなりになってしまった。】
上の古文で、敬語表現は傍線が引いてある「給ひ」で、「給ひ」は尊敬語です。尊敬語は動作をしている人に対する敬意ですので、「失せ」という動作をしている「この帝」に対する敬意となります。また、会話文ではないので、誰から誰には次の通りとなります。
誰から | 誰に | |
給ひ | 作者(語り手) | 帝 |
②動詞が謙譲語で、作者(語り手)から動作を受けている人に対する敬意の例文
上の古文で、敬語表現は傍線が引いてある「奉り」で、「奉り」は謙譲語です。謙譲語は動作を受けている人に対する敬意ですので、「向かひ」という動作を受けている「仏」に対する敬意となります。また、会話文ではないので、誰から誰には次の通りとなります。
誰から | 誰に | |
奉り | 作者(語り手) | 仏 |
③動詞が丁寧語で、作者(語り手)から読者に対する敬意の例文
神無月のころ、来栖野という所を過ぎて、ある山里にたづね入ること侍りしに、(『徒然草』「神無月のころ」)
【現代語訳 神無月(10月)の頃に、来栖野という所を過ぎて、ある山里に訪ね入ることがございました際に、】
上の古文で、敬語表現は傍線が引いてある「侍り」で、「侍り」は丁寧語です。丁寧語は読者に対する敬意ですので、この文章を読んでいる読者に対する敬意となります。また、会話文ではないので、誰から誰には次の通りとなります。
誰から | 誰に | |
侍り | 作者(語り手) | 読者 |
④動詞が尊敬語で、発言している人から動作をしている人に対する敬意の例文
(渡し守の権頭)「まさしくあの客僧こそ判官殿にて、おはしけれ。」と指してそ申しける。(『義経記』「如意の渡りにて義経を弁慶打ち奉る事」)
【現代語訳 渡し守の権頭は、「まさにあの旅僧こそ、判官殿(義経殿)でいらっしゃいますのだ。」と指を指して申し上げた。】
上の古文で、敬語表現は傍線が引いてある「おはし」で、「おはし」は尊敬語です。尊敬語は動作をしている人に対する敬意ですので、「おはし」という動作をしている「判官殿」に対する敬意となります。会話文ですので、誰からの所はこの会話を発言している人となります。誰から誰には次の通りとなります。
誰から | 誰に | |
おはし | 渡し守の権頭 | 判官殿 |
⑤動詞が謙譲語で、発言している人から動作を受けている人に対する敬意の例文
(老婆)「この七十余年、日ごとにかく登りて、卒都婆を見たてまつるなり。」と言へば、(『宇治拾遺物語』「唐に卒塔婆血つくこと」)
【現代語訳 老婆は、「この七十余年、毎日こうして登って、卒塔婆を拝見しているのであります。」と言ったところ、】
上の古文で、敬語表現は傍線が引いてある「たてまつる」で、「たてまつる」は謙譲語です。謙譲語は動作を受けている人に対する敬意ですので、「見」という動作を受けている「卒塔婆」に対する敬意となります。会話文ですので、誰からの所はこの会話を発言している人となります。誰から誰には次の通りとなります。
誰から | 誰に | |
たてまつる | 老婆 | 卒塔婆 |
⑥動詞が丁寧語で、発言している人から発言を聞いている人に対する敬意の例文
この女、「若き主たちはげにあやしと思ひたまふらん。かくまうで来てこの卒都婆見ることは、このごろのことにしもはべらず。」(『宇治拾遺物語』「唐に卒塔婆血つくこと」)
【現代語訳 この老女は、「あなたたちのような若い者たちにとっては、いかにも不思議なことだとお思いになるでしょう。このように参詣してこの卒塔婆を見ることは、最近のことではございません。」(と言った)】
上の古文で、敬語表現は傍線が引いてある「はべら」で、「はべら」は丁寧語です。丁寧語は発言を聞いている人に対する敬意ですので、この発言を聞いている「若き主たち」に対する敬意となります。会話文ですので、誰からの所はこの会話を発言している人となります。誰から誰には次の通りとなります。
誰から | 誰に | |
はべら | この女 | 若き主たち |
カギカッコが付いてない
地の文では作者、
付いているものでは
発言者でいいんですよね?
間違えますよ。
心内表現にはカギカッコが
注意点-心内表現の中に敬語がある(カギカッコ「」が表記されない)場合
心内表現の中に敬語がある場合、カギカッコ「」が書かれていないので、気を付けなければなりません。(「」の表記は近代に入ってから付けられるようになりました)
例文を見てみましょう。
腰二重なる者の、杖にすがりて、卒都婆のもとに来て、卒都婆をめぐりければ、拝みたてまつるかと見れば、(『宇治拾遺物語』「唐に卒塔婆血つくこと」)
【現代語訳 腰が折れ曲がっている者であるが、杖にすがって、卒塔婆の下に来て、卒塔婆の周囲を回ったので、(男たちは、最後に)「拝み差し上げるのか」と思って見ると、
上の古文で、敬語表現である「たてまつる」がある一文にはカギカッコが付いていません。しかし、現代語訳を見るとカギカッコが付いています。心内語(心の中で思ったこと)に関しては、カギカッコを付けるか付けないかは編集した人のさじ加減(自由)になりますので、きちんと現代語訳をしてから敬意の方向を考えなければなりません。誰から誰には次の通りとなります。
誰から | 誰に | |
たてまつる | 男たち | 卒塔婆 |
ダメなんですね。
会話文・手紙文・心内表現は
内容を理解しないと
いけないので、入試では
よく聞かれます。
じゃあ、大学受験に向けて
僕、頑張ります!!
鬼の寒念仏だ!!
すごいだろー!
驚いただろー!
※鬼の寒念仏とは、江戸時代に滋賀県の大津の追分、三井寺辺りで売られていた大津絵の画題の一つです。
言われても~。
滋賀の特徴だって、
馬鹿にして!倉橋先生!
滋賀の良いところ、
琵琶湖以外で言ってあげて。
……。
【伊庭可笑作北尾政演画『大津名物』(天明元年刊)を参考に挿入画を作成】