・現代語訳が分かります。
・単語の意味が分かります。
・テストが聞かれる重要箇所が分かります。
では、『舞姫』の第四段落を見ていきましょう。
前回の解説はこちら。
『舞姫』本文(第四段落)
ある日の夕暮れなりしが、余は獣苑【注1】を漫歩して、ウンテル‐デン‐リンデンを過ぎ、我がモンビシュウ街の僑居(きょうきょ)【注2】に帰らん【注3】と、クロステル巷(こう)【注4】の古寺の前に来ぬ【注5】。余はかの灯火の海を渡り来て、この狭く薄暗き巷(ちまた)に入り、楼上の木欄(おばしま)に干したる【注6】敷布・襦袢(はだぎ)などまだ取り入れぬ【注7】人家、頬髭(ほほひげ)長きユダヤ教徒の翁が戸前にたたずみたる【注6】居酒屋、一つの梯(はしご)は直ちに楼に達し、他の梯は穴倉住まひの鍛冶が家に通じたる【注6】貸家などに向かひて、凹字(おうじ)の形に引き込みて建てられたる【注6】、この三百年前の遺跡を望むごとに、心の恍惚(こうこつ)【注8】となりてしばしたたずみしこと幾度なるを知らず。
今この所を過ぎん【注9】とするとき、鎖(とざ)したる【注6】寺門のとびらによりて、声を呑みつつ泣く一人の少女あるを見たり【注10】。年は十六、七なるべし【注11】。かむりし【注12】巾(きれ)を洩れたる【注6】髪の色は、薄きこがね色にて、着たる【注6】衣(きぬ)は垢(あか)つき汚れたりとも見えず。我が足音に驚かされて顧みたる【注6】面(おもて)、余に詩人の筆なければこれを写すべくもあらず【注13】。この青く清らにて物問ひたげ【注14】に愁(うれい)を含める目の【注15】、半ば露を宿せる【注16】長きまつげにおほはれたる【注17】は、なにゆゑに一顧したるのみにて【注18】、用心深き我が心の底までは徹したるか【注19】。
彼【注20】ははからぬ【注21】深き嘆きに遭ひて、前後を顧みるいとまなく、ここに立ちて泣くにや【注22】。我が臆病なる心は憐憫(れんびん)【注23】の情に打ち勝たれて、余は覚えずそばに寄り、「なにゆゑに泣きたまふか【注24】。ところに係累なき外人(よそびと)【注25】は、却りて力を貸しやすきこともあらん【注26】。」と言ひかけたるが、我ながら我が大胆なるにあきれたり【注27】。
彼【注20】は驚きて我が黄なる面(おもて)をうち守りし【注28】が、我が真率なる心や色【注29】に現れたりけん【注30】。「君は善き人なりと見ゆ【注31】。彼【注32】のごとく【注33】むごくはあらじ【注34】。また我が母のごとく【注33】。」しばし涸(か)れたる涙の泉はまたあふれて愛らしき頬を流れ落つ。
「我を救ひたまへ【注35】、君。我が恥なき人とならんを【注36】。母は我が彼の言葉に従はねばとて、我を打ちき【注37】。父は死にたり【注38】。明日は葬らではかなはぬに【注39】、家に一銭の貯(たくわえ)だになし。」
あとは欷歔(ききょ)【注40】の声のみ。我が眼(まなこ)はこのうつむきたる【注6】少女(おとめ)の震ふ項(うなじ)にのみ注がれたり【注41】。
「君が家に送り行かんに、まづ心を鎮めたまへ【注42】。声をな人に聞かせたまひそ【注43】。ここは往来【注44】なるに。」彼【注20】は物語するうちに、覚えず我が肩によりしが、このときふと頭をもたげ、また初めて我を見たるがごとく、恥ぢて我がそばを飛びのきつ【注45】。
人の見るがいとはしさ【注46】に、早足に行く少女の後につきて、寺の筋向かひなる【注47】大戸を入れば、欠け損じたる石の梯(はしご)あり。これを上りて、四階目に腰を折りてくぐるべきほど【注48】の戸あり。少女はさびたる【注6】針金の先をねぢ曲げたるに、手を掛けて強く引きし【注49】に、中にはしはがれたる老媼(おうな)の声して、「誰(た)ぞ。」と問ふ。エリス帰りぬ【注5】と答ふる間もなく、戸をあららかに引き開けし【注49】は、半ば白みたる髪、悪(あ)しき相にはあらねど【注50】、貧苦の跡を額(ぬか)に印せし【注49】面の老媼にて、古き獣綿【注51】の衣を着、汚れたる上靴をはきたり。エリスの【注52】余に会釈して入るを、彼【注53】は待ちかねし【注49】ごとく【注33】、戸を激しくたてきりつ【注54】。
余はしばし茫然(ぼうぜん)として立ちたりし【注49】が、ふとラムプの光に透かして戸を見れば、エルンスト・ワイゲルトと漆もて【注55】書き、下に仕立物師と注したり【注56】。これ過ぎぬ【注57】といふ少女が父の名なるべし【注11】。内には言ひ争ふごとき声聞こえし【注49】が、また静かになりて戸は再び開きぬ【注5】。さきの老媼は慇懃(いんぎん)に【注58】おのが【注59】無礼の振る舞ひせし【注49】をわびて、余を迎へ入れつ【注60】。戸の内は厨(くりや)【注61】にて、右手(めて)の低き窓に、真白に洗ひたる麻布を懸けたり。左手(ゆんで)には粗末に積み上げたる煉瓦の竈あり。正面の一室の戸は半ば開きたる【注6】が、内には白布をおほへる臥床(ふしど)あり。伏したる【注6】はなき人【注62】なるべし【注11】。竈のそばなる【注47】戸を開きて余を導きつ【注60】。この所はいはゆるマンサルド【注63】の街に面したる【注6】ひと間なれば、天井もなし。隅の屋根裏より窓に向かひて斜めに下がれる梁を、紙にて張りたる下の、立たば頭の【注52】つかふべき所【注64】に臥床あり。中央なる机には美しき氈(かも)【注65】を掛けて、上には書物一、二巻と写真帖(ちょう)とを並べ、陶瓶(とうへい)【注66】にはここに似合はしからぬ【注67】価高き花束を生けたり。そが【注68】傍(かたわ)らに少女は羞(はじ)を帯びて立てり。
彼【注20】は優れて美なり。乳(ち)のごとき色の顔は灯火(ともしび)に映じて微紅(うすくれない)を潮(さ)したり。手足のかぼそくたをやかなる【注69】は、貧家の女に似ず。老媼の室(へや)を出でし【注49】後にて、少女は少しなまりたる言葉にて言ふ。「許したまへ【注70】。君をここまで導きし【注49】心なさを。君は善き人なるべし【注11】。我をばよも憎みたまはじ【注71】。明日に迫るは父の葬(ほう)り、たのみに思ひしシャウムベルヒ、君は彼【注32】を知らでやおはさん【注72】。彼【注32】はヴィクトリア座の座頭なり。彼【注32】が抱へとなりし【注49】より、はや二年なれば、事なく我らを助けん【注73】と思ひしに、人の憂(うれ)ひにつけ込みて、身勝手なる言ひかけせんとは【注74】。我を救ひたまへ【注35】、君。金をば薄き給金をさきて返しまゐらせん【注75】。よしや【注76】我が身は食らはずとも。それもならずば母の言葉に【注77】。」彼【注20】は涙ぐみて身を震はせたり。その見上げたる目には、人に否とは言はせぬ媚態(びたい)【注78】あり。この目の働きは知りてするにや【注79】、また自らは知らぬにや。
我が隠しには二、三マルクの銀貨あれど、それにて足るべくもあらねば【注80】、余は時計をはづして机の上に置きぬ【注5】。「これにて一時の急をしのぎたまへ【注81】。質屋の使ひのモンビシュウ街三番地にて太田と尋ね来んをり【注82】には価を取らすべきに【注83】。」
少女は驚き感ぜし【注49】さま見えて、余が別れのために出だしたる手を唇に当てたるが、はらはらと落つる熱き涙を我が手の背に注ぎつ【注60】。
『舞姫』語句の意味(第四段落)
語句【注】 | 意味 |
1 獣苑 | ベルリンにある動物園も併設する大公園。大ティーアガルテンのこと。 |
2 モンビシュウ街の僑居 | モンビシュウ街にある下宿。「モンビシュウ街」は、ウンテル・デン・リンデンの北東にある街。 |
3 帰らん | 帰ろう。「ん」は意志の助動詞。 |
4 クロステル巷 | クロステルの街中。 |
5 ぬ | 完了の助動詞。 |
6 たる | 存続の助動詞の連体形。意味は「~している」。 |
7 取り入れぬ | 取り込んでいない。「ぬ」は打消の助動詞の連体形。 |
8 恍惚 | 物事に心がうばわれてうっとりすること。 |
9 過ぎん | 過ぎよう。「ん」は意志の助動詞。 |
10 たり | 完了の助動詞「たり」。 |
11 なるべし | であるだろう。「なる」は断定の助動詞の連体形。「べし」は推量の助動詞。 |
12 かむりし | かぶった。「し」は過去の助動詞。 |
13 写すべくもあらず | 書き写すこともできない。「べく」は可能の助動詞。「ず」は打消の助動詞。 |
14 物問ひたげ | 何か問いたそう。 |
15 の | ~で。格助詞の同格。 |
16 宿せる | 留めている。「る」は存続の助動詞。 |
17 おほはれたる | 覆われている。「れ」は受身の助動詞。「たる」は存続の助動詞の連体形。 |
18 なにゆゑに一顧したるのみにて | どうして一目見ただけで。「たる」は完了の助動詞。 |
19 徹したるか | 貫いてしまったのか。「たる」は完了の助動詞。「か」は係助詞の疑問。 |
20 彼 | 彼女。ここでは、泣いていた少女(エリス)のことを指す。 |
21 はからぬ | 思いもよらない。「ぬ」は打消の助動詞の連体形。 |
22 泣くにや | 泣いていたのだろうか。「や」は係助詞の疑問。「にや」の後に「あらん」が省略されている。 |
23 憐憫 | 憐れみ。 |
24 なにゆゑに泣きたまふか | どうして泣いていらっしゃるのですか。「たまふ」は尊敬語。 |
25 ところに係累なき外人 | この地域に煩わしい関わりのない他人。 |
26 あらん | あるでしょう。「ん」は推量の助動詞。 |
27 あきれたり | 驚いた。「たり」は完了の助動詞。 |
28 うち守りし | じっと見つめた。「し」は過去の助動詞。 |
29 真率なる心や色 | 飾り気がなく真面目な心や表情。 |
30 現れたりけん | 現れていたのだろう。「たり」は完了の助動詞。「けん」は過去推量の助動詞。 |
31 見ゆ | 見える。 |
32 彼 | 彼。ここでは、エリスの雇い主である「シャウムベルヒ」を指す。 |
33 ごとく | ~のように。「ごとく」は比況の助動詞。 |
34 あらじ | あるまい。「じ」は打消意志の助動詞。 |
35 救ひたまへ | 御救いください。「たまへ」は尊敬語の命令形。 |
36 ならんを | なろうとするのを。「ん」は意志の助動詞。 |
37 従はねばとて、我を打ちき | 従わないとして、私を叩いた。「ね」は打消の助動詞。「き」は過去の助動詞。 |
38 死にたり | 死んでしまった。 |
39 葬らではかなはぬに | 葬儀をしなくてはならないのに。 |
40 欷歔 | すすり泣き。 |
41 注がれたり | 注がれた。「れ」は受身の助動詞。「たり」は完了の助動詞。 |
42 心を鎮めたまへ | 御心をお静めなさい。「たまへ」は尊敬語の命令形。 |
43 な人に聞かせたまひそ | 人にお聞かせなさるな。「せ」は使役の助動詞。「たまひ」は尊敬語。「な~そ」は禁止を表す表現。 |
44 往来 | 道路。 |
45 飛びのきつ | 飛びのけた。「つ」は完了の助動詞。 |
46 いとはしさ | 嫌。 |
47 なる | ~にある。存続の助動詞。 |
48 くぐるべきほど | くぐることができるぐらい。「べき」は可能の助動詞。 |
49 し | 過去の助動詞。 |
50 悪しき相にはあらねど | 悪い外見ではないけれど。「ね」は打消の助動詞。 |
51 獣綿 | ウール。 |
52 の | ~が。格助詞の主格。 |
53 彼 | 彼女。ここでは、老媼(エリスの母)のことを指す。 |
54 たてきりつ | 閉め切った。「つ」は完了の助動詞。 |
55 もて | ~で・を用いて。 |
56 注したり | 記してあった。「たり」は完了の助動詞。 |
57 過ぎぬ | 死んだ。「ぬ」は完了の助動詞。 |
58 慇懃に | 丁寧に。 |
59 おのが | 自分の・己の。 |
60 つ | 完了の助動詞。 |
61 厨 | 台所。 |
62 なき人 | 亡くなった人。エリスの父を指す。 |
63 マンサルド | 屋根裏部屋。 |
64 つかふべき所 | ぶつかるであろうところ。 |
65 氈 | 毛織りの敷物のこと。 |
66 陶瓶 | 陶器のビン。 |
67 似合はしからぬ | 似合わない。「ぬ」は打消の助動詞の連体形。 |
68 そが | それの。 |
69 たをやかなる | しなやかな。 |
70 許したまへ | お許しください。「たまへ」は尊敬語の命令形。 |
71 よも憎みたまはじ | まさかお恨みなさるまい。「たまは」はは尊敬語。「じ」は打消意志の助動詞。 |
72 知らでやおはさん | ご存じないでしょうか。「で」は打消の接続助詞。「や」は係助詞の疑問。「おはさ」は尊敬語。「ん」は推量の助動詞。 |
73 事なく我らを助けん | 何事もなく私たちを助けるだろう。「ん」は推量の助動詞。 |
74 言ひかけせんとは | 言いがかりをしようとは。「ん」は意志の助動詞。 |
75 さきて返しまゐらせん | 差し引いてお返しいたしましょう。「まゐらせ」は謙譲語。「ん」は意志の助動詞。 |
76 よしや | たとえ。 |
77 それもならずば母の言葉に | それも叶わなければ母の言葉に(従います)。※エリスは座長・シャウムベルヒに弱みに付け込まれ、肉体関係を迫られており、エリスの母も生活のために、仕方がないと考えている。 |
78 媚態 | 異性にこびる態度のこと。 |
79 知りてするにや | 知ってするのだろうか。「や」は係助詞の疑問。「にや」の後に「あらん」が省略されている。 |
80 足るべくもあらねば | 足りようはずもないので。「べく」は当然の助動詞。 |
81 しのぎたまへ | しのぎなさい。「たまへ」は尊敬語の命令形。 |
82 尋ね来んをり | 太田を尋ね来るようなとき。「ん」は婉曲の助動詞。 |
83 取らすべきに | 取らせるから。「べき」は意志の助動詞。 |
『舞姫』現代語訳(第四段落)
ある日の夕暮れだったが、私は「大ティーアガルテン」を散歩して、「ウンテル・デン・リンデン通り」を過ぎて、「モンビシュウ街」にある下宿に帰ろうと、クロステルの街中にある古寺の前に来た。私はあの街灯の海を渡って来て、この狭くうす暗い分かれ街中に入り、建物の手すりに干してあるシーツや肌着などをまだ取り込んでいない家や、頬ひげの長いユダヤ教徒のおじいさんが入口の前でたたずんでいる居酒屋や、一つのはしごがまっすぐに建物に達して、他のはしごは穴倉住まいの鍛冶屋の家に通じている貸家などに向かって、凹の字の形に引っ込んで建てられている、この300 年前の遺跡を眺めるたびに、心がうっとりして、しばらくの間たたずんだことが何度あったか分からない。
今、ちょうどこの場所を通り過ぎようとするとき、閉じてある寺の門のとびらによりかかって、声を抑えて泣くひとりの少女がいるのを見た。年は 16、17 才であるだろう。かぶった頭巾から出ている髪の毛の色は、薄い黄金色で、着ている服は垢がついて汚れているとも見えない。私の足音に驚いてふりかえった顔は、私に詩人の文章力がないので、これを書く写すこともできない。この青く美しい、何か問いたそうな愁いを含んでいる目で、半ば涙の露を留めている長いまつ毛に覆われているものは、どうして一目見ただけで用心深い私の心の底まで貫いてしまったのか。
彼女は思いもよらない深い嘆きに遭遇して、前後を顧みる暇もなく、ここに立って泣いていたのだろうか。私の臆病な心は憐れみの情に打ち勝って、私は無意識のうちにそばに近寄り、「どうして泣いていらっしゃるのですか。この地域に煩わしい関わりのない他人なら、かえって力を貸しやすいこともあるでしょう。」と言葉をかけたが、我ながら自分の大胆なことに驚いた。
彼女は驚いて私の黄色い顔をじっと見つめたが、私の飾り気がなく真面目な心や表情に表
れていたのだろう。「あなたは良い人だだと見える。あの人(エリスの雇い主のシャウムベルヒ)のようにひどくはあるまい。そして私の母のように。」少しのあいだ枯れていた涙の泉はまたあふれて愛らしい頬を流れ落ちた。
「私をお救いください、あなた様。私が恥のない人になろうとするのを(お助け下さい)。母は私が彼の言うことに従わないとして、私を叩いた。父は死んでしまった。明日は葬儀をしなくてはならないのに、家には一銭の貯金さえない。」
あとはすすり泣きの声ばかりである。私の目はこのうつむいている少女の震えるうなじにばかり注がれていた。
「あなたの家に送っていくから、まず御心をお静めなさい。声を他の人にお聞かせなさるな。ここは道路であるから。」彼女は話をするうちに、無意識に私の肩に寄り掛かったが、このときふと頭をもちあげ、また初めて私を見たように、恥じて私のそばを飛びのけた。
人に見られるのが嫌であるので、足早に行く少女の後について、寺の筋向いにある大きな戸をくぐると、欠けた石のはしごがある。これを上って、4 階目に腰を折ってくぐることができるくらいの戸がある。少女は、さびている針金で先をねじ曲げたものに、手をかけて強く引いたところ、中からしわがれたおばあさんの声がして、「誰だ」とたずねた。「エリスが帰った」と答える間もなく、戸を荒々しく引き開けたのは、半分白くなった髪で、悪い外見ではないけれど、貧苦の跡を額にきざんだ顔のおばあさんがいて、古いウールの服を着て、汚れた上靴をはいている。エリスが私におじぎして入るのを、おばあさんは待ちかねたように、戸を激しく閉めきった。
私はしばらく呆然ととして立っていたが、ふとランプの光にすかして戸を見ると、「エルンスト・ワイゲルト」と漆で書いて、下に仕立物師と記してあった。これは死んだと言う少女の父の名であろう。うちには言い争うような声が聞こえたが、また静かになって戸は再び開いた。先程のおばあさんは丁寧にみずからの無礼のふるまいを謝って、私を迎え入れた。戸のなかは台所で、右手に低い窓があって、真っ白に洗った麻布をかけている。左手には粗末に積みあげたレンガのかまどがある。正面の一室の戸は半分開いているが、なかには白い布で覆った寝床がある。横になっているのは亡くなった人であろう。かまどのそばにある戸を開いて私を招き入れた。この場所はいわゆる「マンサルド」式の街に面したひとまなので、天井もない。
隅の屋根裏から窓に向かって、ななめに下った梁を、紙で張った下の、立てば頭がぶつかるであろうところに寝床がある。中央にある机にはうつくしい敷物を掛けて、上には書物 1、2 巻と写真帖を並べ、花びんにはここに似あわない高価な花束を生けてある。それのそばに少女は恥ずかしそうに立っている。
彼女は優れて美しい。乳のような色の顔は明かりに映って、うす紅の色にほおをさしている。手足がかぼそくてしなやかなのは、貧しい家の女らしくない。おばあさんの部屋を出た後で、少女は少しなまった言葉で言う。「お許しください。あなたをここまで連れてきた無分別さを。あなたは良い人であるでしょう。私をまさかお恨みなさるまい。明日にせまるのは父の葬儀、頼りに思ったシヤウムベルヒ、あなたは彼をご存じないでしょうか。彼はヴィクトリア座という劇場の座長である。彼に雇われてから、はやくも 2 年になるので、『何事もなく私たちを助けるだろう』と思ったが、人の憂いに付けこんで、身勝手な言いがかりをしようとは。私をお助けください、あなた様。お金を少ない給料からさし引いてお返しいたしましょう。たとえ私の身は食べなくても。それも叶わなければ母の言葉に(従います)。」彼女は涙ぐんで体を震わせている。
その見上げている目には、人に「嫌だ」と言わせない媚態がある。この目の働きは気づいていてするのだろうか、それとも自分では気づかずにするのだろうか。
私のポケットには 2、3 マルクの銀貨があるけれど、それでは足りようはずもないので、私は時計をはずして机の上に置いた。「これで一時の急をしのぎなさい。質屋の使いがモンビシユウ街三番地に太田を尋ね来るようなときには代金を取らせるから。」
少女は驚いて感動した様に見えて、私が別れのために出した手を唇に当てたが、はらはらと落ちる熱い涙を私の手の甲に注いだ。
『舞姫』第四段落重要箇所
いかがでしたでしょうか。
第四段落で特に重要な箇所は次の通りです。
・第四段落の各所に出てくる「彼」が誰を指すか分かるようにしておきましょう。
→エリスとエリスの母とシヤウムベルヒの三パターンあります。
・エリスが、彼(シヤウムベルヒ)をむごいと思ったのはなぜでしょう?また、自分の母もむごいと思ったのはなぜでしょう?
→シヤウムベルヒは人の弱みに付け込んで、身勝手な言いがかりをしてきたから。エリスの母もシヤウムベルヒの言いがかりに従うように説得してきたから。
・エリスの窮状に対して、豊太郎がしたことは何でしょう?
→自分の時計を質屋に入れさせて、エリスの父の葬式代を賄わせ、後で質屋の使いに時計を自宅に戻してもらってその代金を自分が払うという方法でエリスの窮地を救おうとした。
続きは以下のリンクからどうぞ。