・現代語訳が分かります。
・単語の意味が分かります。
・テストが聞かれる重要箇所が分かります。
では、『舞姫』の第六段落を見ていきましょう。
前回の解説はこちら。
『舞姫』本文(第六段落)
公使に約せし【注1】日も近づき、我が命【注2】は迫りぬ【注3】。このままにて郷に帰らば【注4】、学成らずして汚名を負ひたる身の浮かぶ瀬あらじ【注5】。さればとて【注6】とどまらん【注7】には、学資を得べき手だてなし【注8】。
このとき余を助けしは今我が同行の一人なる相沢謙吉なり【注9】。彼は東京に在りて、既に天方伯の秘書官たりしが【注10】、余が免官の官報に出でし【注1】を見て、某新聞紙の編集長に説きて、余を社の通信員となし、ベルリンにとどまりて政治・学芸のことなどを報道せしむる【注11】こととなしつ【注12】。
社の報酬はいふに足らぬほどなれど【注13】、棲家(すみか)をも移し、午餐(ひるげ)【注14】に行く食店をも変へたらんには【注15】、かすかなる暮らしはたつべし【注16】。とかう【注17】思案するほどに、心の誠を顕(あらわ)して、助けの綱を我に投げ掛けし【注1】はエリスなりき。彼はいかに母を説き動かしけん【注18】、余は彼ら【注19】親子の家に寄寓(きぐう)【注20】することとなり、エリスと余とはいつよりとはなしに、あるかなきかの収入を合はせて、憂きがなかにも楽しき月日を送りぬ【注3】。
朝のカッフェエ果つれば【注21】、彼は温習【注22】に行き、さらぬ日【注23】には家にとどまりて、余はキョオニヒ街の間口狭く奥行きのみいと長き休息所に赴き、あらゆる新聞を読み、鉛筆取り出でてかれこれと材料を集む。この切り開きたる引き窓より光をとれる室にて、定まりたる業(わざ)なき若人【注24】、多くもあらぬ金を人に貸して己は遊び暮らす老人、取引所の業の暇をぬすみて足を休むる商人などと臂(ひじ)を並べ、冷ややかなる石卓の上にて、忙はしげに筆を走らせ、小女が持て来る一杯のカッフェエの冷むるをも顧みず、あきたる【注25】新聞の細長き板ぎれにはさみたる【注25】を、幾種【注26】となく掛け連ねたる【注25】かたへ【注27】の壁に、幾度となく往来する日本人を、知らぬ人は何とか見けん【注28】。また一時近くなるほどに、温習に行きたる日には帰り路によぎりて、余とともに店を立ち出づるこの常ならず【注29】軽き、掌上の舞【注30】をもなし得つべき【注31】少女を、怪しみ見送る人もありしなるべし【注32】。
我が学問は荒みぬ【注3】。屋根裏の一灯かすかに燃えて、エリスが劇場より帰りて、椅子によりて縫ひ物などするそばの机にて、余は新聞の原稿を書けり【注33】。昔の法令条目の枯れ葉【注34】を紙上に掻き寄せしとは殊にて【注35】、今は活発々たる【注36】政界の運動、文学・美術にかかはる新現象の批評など、かれこれと結び合はせて、力の及ばんかぎり、ビヨルネ【注37】よりはむしろハイネ【注38】を学びて思ひを構へ、さまざまの文を作りしうちにも、引き続きてウィルヘルム一世とフレデリック三世【注39】との崩殂(ほうそ)【注40】ありて、新帝の即位、ビスマルク侯【注41】の進退いかん【注42】などのことにつきては、ことさらに【注43】詳かなる報告をなしき。さればこの頃よりは思ひし【注1】よりも忙はしくして、多くもあらぬ蔵書をひもとき、旧業【注44】をたづぬることも難く、大学の籍はまだ削られねど、謝金を収むることの難ければ、ただ一つにしたる講筵だに行きて聴くことはまれなりき。
我が学問は荒みぬ【注3】。されど【注45】余は別に一種の見識を長じき【注46】。そを【注47】いかにといふに、およそ民間学の流布したることは、欧州諸国の間にてドイツにしくはなからん【注48】。幾百種の新聞・雑誌に散見する議論にはすこぶる【注49】高尚なるも多きを、余は通信員となりし【注1】日より、かつて大学にしげく【注50】通ひし【注1】をり【注51】、養ひ得たる一隻(いっせき)の眼孔【注52】もて、読みてはまた読み、写してはまた写すほどに、今まで一筋の道をのみ走りし知識は、おのづから【注53】総括的になりて、同郷の留学生などのおほかた【注54】は、夢にも知らぬ境地に至りぬ。彼らの仲間にはドイツ新聞の社説をだに【注55】善くはえ読まぬがあるに【注56】。
『舞姫』語句の意味(第六段落)
語句【注】 | 意味 |
1 し | 過去の助動詞。 |
2 命 | 運命。 |
3 ぬ | 完了の助動詞。 |
4 帰らば | 帰ったならば。 |
5 身の浮かぶ瀬あらじ | 身の上が上昇する機会はあるまい。「じ」は打消推量の助動詞。 |
6 さればとて | そうかといって。 |
7 ん | ~よう。意志の助動詞。 |
8 学資を得べき手だてなし | 学資(留学の資金)を得られる手段がない。「べき」は可能の助動詞。 |
9 なり | 断定の助動詞。 |
10 たりしが | であったが。「たり」は断定の助動詞。「し」は過去の助動詞。 |
11 報道せしむる | 報道させる。「しむる」は使役の助動詞。 |
12 つ | 完了の助動詞。 |
13 いふに足らぬほどなれど | 言うに足りないほどであったが。 |
14 午餐 | 昼食。 |
15 変へたらんには | 変えたならば。「ん」は仮定の助動詞。 |
16 べし | 推量の助動詞。 |
17 とこう | あれこれ。 |
18 けん | ~ただろう。過去推量の助動詞。 |
19 彼ら | 彼女ら。 |
20 寄寓 | 仮住まい。 |
21 朝のカッフェエ果つれば | モーニングコーヒーが終わると。 |
22 温習 | 稽古。 |
23 さらぬ日 | そうではない日。 |
24 定まりたる業なき若人 | 定まった仕事のない若者。 |
25 たる | 存続の助動詞。 |
26 幾種 | 何種類。 |
27 かたへ | 片方。 |
28 何とか見けん | 何者と見たのだろうか。「か」は係助詞の疑問。「けん」は過去推量の助動詞。 |
29 常ならず | 普通でない。 |
30 掌上の舞 | 軽業の舞。 |
31 なし得つべき | 習得した。 |
32 べし | ~ちがいない。推量の助動詞。 |
33 り | 完了の助動詞。 |
34 昔の法令条目の枯れ葉 | 昔の法令や条目といった枯れ葉のようなものを。 |
35 殊にて | 異なって。 |
36 活発々たる | 活発な。 |
37 ビヨルネ | ドイツの評論家。 |
38 ハイネ | ドイツの詩人、評論家。 |
39 ウィルヘルム1世とフレデリック3性 | 共にドイツの皇帝。 |
40 崩殂 | 崩御。 |
41 ビスマルク侯 | ドイツの政治家。 |
42 いかん | 行方。 |
43 ことさらに | 特に。 |
44 旧業 | 以前申し込んだ法律学科の講演。 |
45 されど | しかし。 |
46 長じき | 成長させた。 |
47 そを | それを。 |
48 しくはなからん | 及ぶものはないだろう。 |
49 すこぶる | たいへん。 |
50 しげく | 頻繁に。 |
51 をり | 時。 |
52 一隻の眼孔 | ひとかどの見識。 |
53 おのづから | 自然と。 |
54 おほかた | 大半。 |
55 だに | さえ。 |
56 え読まぬがあるに | 読めない者もいるのに。「え~打消表現」は「~できない」 |
『舞姫』現代語訳(第六段落)
公使に約束した日も近づき、私の運命は迫った。このまま日本に帰れば、学問が成就せずに汚名を負ったわが身の上が上昇する機会はあるまい。そうだからといってドイツに留まっても、学資(留学の資金)を得られる手段がない。このとき私を助けたのは、今、帰国する私と同行する一人である相沢謙吉である。彼は東京にいて、すでに天方伯の秘書官であったが、私の免職が官報に出ていたことを見て、何々新聞紙の編集長に説明して、私を新聞社の通信員とし、ベルリンに留まって政治・学芸のことなどを報道させることとした。
新聞社の報酬は言うに足りないほどだけれど、住まいを移し、昼食に行くお店を変えるならば、かすかな暮らしができるだろう。あれこれ思案する中で、心の誠をあらわして、助け綱を私に投げたのはエリスであった。彼女はどのように母を説き動かしたのだろう、私は彼ら親子の家に仮住まいすることとなり、エリスと私はいつからというわけではないが、あるかないかの収入を合わせて、つらいなかにも楽しい月日を送った。
モーニングコーヒーが終わると、彼女は練習に行き、そうでない日には家に留まって、私はキョオニヒ街の間口が狭く、奥行だけがとても長い休息所に行って、あらゆる新聞を読み、鉛筆を取り出してあれこれと材料を集める。この切り開いた引き窓から光を取った部屋で、定まった仕事のない若者や、多くもない金を人に貸して自分は遊んで暮らす老人、証券取引所の仕事のひまを盗んで足を休める商人などとひじを並べ、冷たい石机の上で、忙しく筆を走らせ、ウェイトレスが持ってくる一杯のコーヒーが冷めるのも気にせず、開いている新聞で、細長い板きれにはさんでいるものを、何種類となく掛けて並べてある片方の壁に、何度となく行き来する日本人を、知らない人は何と見たのだろうか。そして1時近くなる頃に、練習に行った日には帰り道に立ち寄って、私とともに店を出るこの普通でなく軽い、軽業の舞を習得した少女を、怪しんで見送る人もいたにちがいない。
私の学問は廃れた。屋根裏のランプがかすかに燃えて、エリスが劇場から帰って、椅子にもたれて縫い物などをするそばの机で、私は新聞の原稿を書いた。昔の法令や条目といった枯れ葉のようなものを紙の上に書き寄せた時とは異なって、今は活発な政界の運動、文学美術にかかわる新現象の批評など、あれこれと結びあわせて、力の及ぶかぎり、ビヨルネよりはむしろハイネを学んで考えを組み立て、さまざまの文章を作ったなかで、続いてヴィルヘルム 1 世とフレデリック 3 世の崩御があって、新帝の即位、ビスマルク侯の進退の行方などのことについては、特に詳しく報告を行った。そのようであるので、この頃から、思ったよりも忙しく、多くもない蔵書をひもとき、以前申し込んだ法律学科の講演に行くことも難しく、大学の籍はまだ除かれていないけれど、受講料を収めることが難しくなったので、ただ一つだけ受けようとしていた講演でさえ聴きにいくことは稀になった。
私の学問は廃れた。しかし、私はそれとは別に一種の見識を成長させた。それはどのようなものかと言うと、だいたい民間学の広まったことは、ヨーロッパ諸国の間でドイツにおよぶ国はないだろう。数百種類の新聞・雑誌に散見する議論にはたいへん高尚なものも多くて、私は通信員となった日から、以前大学によく通った時に、養ったひとかどの見識によって、読んではまた読み、書き写してはまた書き写すうちに、今まで一筋の道だけを走った知識は、自然と総括的になって、同郷の留学生などの大半には、夢にも知らない境地に達成した。彼らの仲間にはドイツ新聞の社説さえ、よくは読めないものがいるのに。
『舞姫』第六段落重要箇所
いかがでしたでしょうか。
第六段落で特に重要な箇所は次の通りです。
・「今我が同行」の「今」とはいつのことでしょう?
→日本へ帰国する途上のセイゴンの港で手記を書いている時。
・「旧業」について本文中ではどのように表現しているでしょう?。
→昔の法令条目の枯れ葉を紙上に掻き寄せし
・「一種の見識」とはどのようなことでしょう?
→高尚な議論が展開している新聞・雑誌を散見しまとめているうちに、知識が総括的になって、ほかの留学生では経験できない境地に至ったこと。
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森鴎外『舞姫』の現代語訳と意味の解説7