・現代語訳が分かります。
・単語の意味が分かります。
・テストが聞かれる重要箇所が分かります。
では、『舞姫』の第七段落を見ていきましょう。
前回の解説はこちら。
『舞姫』本文(第七段落)
明治二十一年の冬は来にけり【注1】。表街(おもてまち)の人道にてこそ砂をもまけ、すきをもふるへ、クロステル街の辺りは凸凹坎坷(かんか)【注2】の所は見ゆめれど【注3】、表のみは一面に凍りて、朝に戸を開けば飢ゑ凍えし【注4】雀の落ちて死にたるも哀れなり。室を温め、かまどに火をたきつけても、壁の石をとほし、衣の綿をうがつ【注5】北ヨオロッパの寒さは、なかなかに堪へがたかり【注6】。エリスは二、三日前の夜、舞台にて卒倒しつ【注7】とて、人に助けられて帰り来し【注4】が、それより心地悪しとて休み、物食ふごとに吐くを、悪阻(つわり)といふものならん【注8】と初めて心づきし【注4】は母なりき【注9】。ああ、さらぬだに【注10】おぼつかなき【注11】は我が身の行く末なるに、もしまことなりせばいかにせまし【注12】。
今朝は日曜なれば家に在れど、心は楽しからず。エリスは床に臥すほどにはあらねど、小さき鉄炉のほとりに椅子さし寄せて言葉少なし。このとき戸口に人の声して、程なく庖厨(ほうちゅう)【注14】にありし【注4】エリスが母は、郵便の書状を持て来て余に渡しつ【注7】。見れば見覚えある相沢が手【注15】なるに、郵便切手はプロシアのものにて、消印にはベルリンとあり。いぶかりつつも【注16】開きて読めば、とみのこと【注17】にてあらかじめ知らするに由なかりし【注4】が、昨夜ここに着せられし【注18】天方大臣につきて我も来たり。伯【注19】の【注20】汝を見まほし【注21】とのたまふ【注22】に疾く【注23】来よ。汝が名誉を回復するもこのときにあるべきぞ【注24】。心のみ急がれて用事をのみ言ひやるとなり。読み終はりて茫然たる面持ちを見て、エリス言ふ。「故郷よりの文なりや【注25】。悪しき便りにてはよも【注26】。」彼【注27】は例の新聞社の報酬に関する書状と思ひし【注4】ならん【注28】。「否、心になかけそ【注29】。御身【注30】も名を知る相沢が、大臣とともにここに来て我を呼ぶなり【注31】。急ぐと言へば今よりこそ【注32】。」
かはゆき独り子を出だしやる母もかくは心を用ゐじ【注33】。大臣にまみえもやせん【注34】と思へばならん【注35】、エリスは病をつとめて【注36】起ち、上襦袢(うわじゅばん)【注37】もきはめて白きを選び、丁寧にしまひおきし【注4】ゲエロック【注38】といふ二列ボタンの服を出だして着せ、襟飾り【注39】さへ余がために手づから【注40】結びつ【注7】。
「これにて見苦しとは誰もえ言はじ【注41】。我が鏡に向きて見たまへ【注42】。なにゆゑにかく不興なる面持ち【注43】を見せたまふか【注44】。我ももろともに【注45】行かまほしきを【注46】。」少し容(かたち)【注47】を改めて、「否、かく衣を改めたまふを見れば、なにとなく我が豊太郎の君とは見えず。」また少し考へて、「よしや【注48】富貴になりたまふ日はありとも、我をば見捨てたまはじ【注49】。我が病【注50】は母の【注20】のたまふごとく【注51】ならずとも。」
「なに、富貴。」余は微笑しつ【注7】。「政治社会などに出でん【注52】の望みは絶ちし【注4】より幾年をか経ぬるを。大臣は見たくもなし。ただ年久しく別れたりし【注4】友にこそ会ひには行け【注53】。」エリスが母の呼びし【注4】一等ドロシュケ【注54】は、輪下にきしる雪道を窓の下まで来ぬ【注55】。余は手袋をはめ、少し汚れたる外套【注56】を背におほひて手をば通さず帽を取りてエリスに接吻して楼を下りつ【注7】。彼【注27】は凍れる窓を開け、乱れし【注4】髪を朔風(さくふう)に吹かせて余が乗りし車を見送りぬ【注55】。
余が車を下りし【注4】はカイゼルホオフ【注57】の入り口なり。門者(かどもり)に秘書官相沢が室の番号を問ひて、久しく踏み慣れぬ大理石の階を登り、中央の柱にプリュッシュをおほへるゾファ【注58】を据ゑつけ、正面には鏡を立てたる前房に入りぬ【注55】。外套【注56】をばここにて脱ぎ、廊(わたどの)【注59】を伝ひて室の前まで行きし【注4】が、余は少し踟躕(ちちゅう)【注60】したり。同じく大学に在りし【注4】日に、余が品行の方正なるを激賞したる相沢が、今日はいかなる面もちして出で迎ふらん。室に入りて相対して見れば、形こそ旧に比ぶれば肥えてたくましくなりたれ【注61】、依然たる快活の気象【注62】、我が失行【注63】をもさまで【注64】意に介せざりきと見ゆ。別後の情を細叙【注65】するにもいとま【注66】あらず、引かれて大臣に謁し、委託せられし【注4】はドイツ語にて記せる文書の急を要するを翻訳せよとのことなり。余が文書を受領して大臣の室を出でしとき、相沢は後より来て余と午餐(ひるげ)【注67】を共にせんと言ひぬ【注55】。
食卓にては彼【注68】多く問ひて、我多く答へき【注4】。彼が生路【注69】はおほむね平滑なりしに、轗軻(かんか)【注70】数奇なるは我が身の上なりければなり。
余が胸臆(きょうおく)【注71】を開いて物語りし【注4】不幸なる閲歴を聞きて、彼はしばしば驚きしが、なかなかに余を責めんとはせず、却りて他の凡庸なる諸生輩をののしりき【注4】。されど物語の終はりし【注4】とき、彼は色を正していさむるやう、この一段のことはもと生まれながらなる弱き心より出でしなれば、今更に言はんもかひなし。とはいへ、学識あり、才能ある者が、いつまでか一少女の情にかかづらひて【注72】、目的なき生活をなすべき【注73】。今は天方伯もただドイツ語を利用せんの心のみなり。己もまた伯が当時の免官の理由を知れるが故に、強ひてその成心【注74】を動かさんとはせず、伯が心中にて曲庇者(きょくひしゃ)【注75】なりなんど思はれん【注76】は、朋友に利なく、己に損あればなり。人を薦むるはまづその能を示すにしかず【注77】。これを示して伯の信用を求めよ。またかの少女との関係は、よしや彼【注27】に誠ありとも、よしや【注78】情交は深くなりぬとも、人材を知りての恋にあらず、慣習といふ一種の惰性より生じたる交はりなり。意を決して断てと。これその言のおほむね【注79】なりき【注4】。
大洋に舵を失ひし【注4】舟人が、はるかなる山を望むごときは【注80】、相沢が余に示したる前途【注81】の方針なり。されどこの山はなほ重霧の間に在りて、いつ行き着かんも、否、はたして行き着きぬとも、我が中心に満足を与へんも定かならず。貧しきが中にも楽しきは今の生活、捨て難きはエリスが愛。我が弱き心には思ひ定めん由なかりし【注4】が、しばらく友の言に従ひて、この情縁を断たんと約しき【注4】。余は守るところを失はじ【注82】と思ひて、己に敵する者には抗抵すれども、友に対して否とはえ答へぬが常なり。
別れて出づれば風面を打てり。二重のガラス窓をきびしく鎖(とざ)して、大いなる陶炉(とうろ)【注83】に火をたきたるホテルの食堂を出でしなれば、薄き外套【注56】をとほる午後四時の寒さはことさらに堪へがたく、膚(はだえ)あはだつ【注84】とともに、余は心のうちに一種の寒さを覚えき【注4】。
翻訳は一夜になし果てつ【注7】。カイゼルホオフへ通ふことはこれよりやうやくしげく【注85】なりもてゆくほどに、初めは伯の言葉も用事のみなりし【注4】が、後には近頃故郷にてありし【注4】ことなどを挙げて余が意見を問ひ、折に触れては道中にて人々の失策ありし【注4】ことどもを告げてうち笑ひたまひき【注4】。
『舞姫』語句の意味(第七段落)
語句【注】 | 意味 |
1 来にけり | 来てしまった。「に」は完了の助動詞。「けり」は過去の助動詞。 |
2 凸凹坎坷 | でこぼこして歩きづらい。 |
3 見ゆめれど | 見えるようだが。「めれ」は推定の助動詞。 |
4 し | 過去の助動詞。 |
5 うがつ | 貫く。 |
6 堪へがたかり | 耐え難いものだ。カリ活用。動詞「あり」が形容詞の連用形「~く」に融合したもの。 |
7 つ | 完了の助動詞。 |
8 ならん | であるだろう。「なら」は断定の助動詞。「ん」は推量の助動詞。 |
9 なりき | であった。「なり」は断定の助動詞。「き」は過去の助動詞。 |
10 さらぬだに | そうでなくてさえ。 |
11 おぼつかなき | 不安。 |
12 いかにせまし | どのようにしたらよいのだろうか。「まし」反実仮想の助動詞。 |
13 庖厨 | 台所。 |
14 午餐 | 昼食。 |
15 手 | 筆跡。 |
16 いぶかりつつも | 不審に思いつつも。 |
17 とみのこと | 急なこと。 |
18 着せられし | 到着された。「られ」は尊敬の助動詞。「し」は過去の助動詞。 |
19 伯 | 伯爵。ここでは「天方大臣」を指す。 |
20 の | ~が。格助詞の主格。 |
21 見まほし | 会いたい。「まほし」は願望の助動詞。 |
22 のたまふ | おっしゃる。「言ふ」の尊敬語。 |
23 疾く | 早く。 |
24 あるべきぞ | あろう。「べき」は推量の助動詞。 |
25 なりや | ですか。「や」は係助詞の疑問。 |
26 よも | まさかあるまい。「よも」の後に、「あらじ」が省略されている。 |
27 彼 | 彼女。ここでは「エリス」を指す。 |
28 ならん | であるだろう。「なら」は断定の助動詞。「ん」は推量の助動詞。 |
29 心になかけそ | 心配するな。「な~そ」は、「~するな」という意味の禁止表現。 |
30 御身 | あなた。ここでは「エリス」を指す。 |
31 なり | ~である。断定の助動詞。 |
32 今よりこそ | 今から行こう。「こそ」の後に、「行かん」が省略されている。 |
33 心を用ゐじ | 気をつかうまい。「じ」は打消推量の助動詞。 |
34 まみえもやせん | お目にかかることもあろうか。「や」は係助詞の疑問。「ん」は推量の助動詞。 |
35 思へばならん | 思ったからであろう。「なら」は断定の助動詞。「ん」は推量の助動詞。 |
36 病をつとめて | 病を押して。 |
37 上襦袢 | ワイシャツ。 |
38 ゲエロツク | フロックコート。男性の礼服。 |
39 襟飾り | ネクタイ。 |
40 手づから | 自分の手で。 |
41 え言はじ | 言うことはできまい。「え~打消表現」で「~できない」という意味。「じ」は打消推量の助動詞。 |
42 見たまへ | ご覧なさい。「たまへ」は尊敬の補助動詞の命令形。 |
43 不興なる面持ち | 面白くない表情。 |
44 見せたまふか | お見せなさるのか。「たまふ」は尊敬の補助動詞。「か」は係助詞の疑問。 |
45 もろともに | 一緒に。 |
46 行かまほしきを | 行きたいのに。「まほしき」は願望の助動詞。 |
47 容 | 様相。 |
48 よしや | たとえ。 |
49 見捨てたまはじ | 見捨てなさるまい。「じ」は打消推量の助動詞。 |
50 我が病 | ここは、悪阻(つわり)のことを指す。 |
51 のたまふごとく | おっしゃるように。「のたまふ」は「言ふ」の尊敬語。「ごとく」は比況の助動詞。 |
52 出でん | 出るような。「ん」は婉曲の助動詞。 |
53 行け | 行くのだ。「行け」は命令形ではなく、已然形。係助詞「こそ」に呼応している。 |
54 ドロシュケ | 辻馬車。 |
55 ぬ | 完了の助動詞。 |
56 外套 | コート。 |
57 カイゼルホオフ | ホテルの名前。 |
58 プリュッシュをおほへるゾファ | 「ブリユツシユ」をおおったソファー。「 プリュッシュ」はビロード(布)の一種。「る」は完了の助動詞。「ゾファ」はソファーのこと。 |
59 廊 | 廊下。 |
60 踟躕 | 躊躇(ちゅうちょ)・ためらう。 |
61 たれ | 完了の助動詞の已然形。係助詞「こそ」に呼応している。 |
62 気象 | 気質・生まれつきの性質。 |
63 失行 | 過ち。 |
64 さまで | そんなに・それほどまで。 |
65 細叙 | 細かく話す。 |
66 いとま | 暇・時間。 |
67 午餐 | 昼食。 |
68 彼 | ここでは、「相沢」のこと。 |
69 生路 | 人生の道。 |
70 轗軻 | 不運・不遇。 |
71 胸臆 | 胸の奥・胸の中。 |
72 かかづらひて | わずらって。 |
73 なすべき | するのだろうか。「べき」は推量の助動詞で、係助詞「か」に呼応している。 |
74 成心 | 先入観。 |
75 曲庇者 | 事実を偽って人をかばう者。 |
76 思はれん | お思いになられるような。「れ」は尊敬の助動詞。「ん」は婉曲の助動詞。 |
77 しかず | 及ばない。 |
78 よしや | たとい・かりに。 |
79 おほむね | あらまし・だいたいの主旨。 |
80 望むごときは | 見渡すようなことは。 |
81 前途 | 行く先・将来。 |
82 失はじ | 失わまい。「じ」は打消意志の助動詞。 |
83 陶炉 | 陶製の暖炉。 |
84 あはだつ | 鳥肌が立つ。 |
85 しげく | 頻繁に |
『舞姫』現代語訳(第七段落)
明治21年の冬は来てしまった。表街の道は砂もまき、すきもふるうが、クロステル街の辺りはでこぼこして歩きにくいところは見えるようだけれど、表面だけは一面に凍って、朝に戸を開けると飢え凍えた雀が落ちて死んでいるのも哀れである。部屋を暖め、かまどに火をたきつけても、壁の石を通し、服の綿を貫く北ヨーロッパの寒さは、ずいぶん耐えがたかった。エリスは二、三日前の夜、舞台で卒倒したといって、人に助けられて帰ってきたが、それから「気分がわるい」と言って休み、食べ物を食べるたびに吐くのを、「つわりというものだろう」とはじめて気がついたのは母であった。ああ、そうでなくてさえ不安なのは私自身の行く末であるのに、もし本当だったらどのようにしたらよいのだろうか。
今朝は日曜日なので家にいたが、心は楽しくない。エリスは、ベットに横になるほどではないけれど、小さいストーブのそばに椅子を引き寄せて口数も少ない。このとき戸口に人の声がして、ほどなく台所にいたエリスの母は、郵便の書状を持ってきて私にわたした。見ると見覚えのある相沢の筆跡で、郵便切手はプロシアのもので、消印にはベルリンとある。不審に思いつつも開いて読むと、「急のことであらかじめ知らせるのに方法がなかったが、昨晩ここに到着された天方大臣につきそって私も来た。伯が『あなたに会いたい』とおっしゃるのでは早く来い。あなたの名誉を回復するのもこのときであろう。心だけが急がれて用事だけを伝えた。」とある。読み終わって呆然とした表情を見て、エリスが言う。「故郷からの手紙ですか。まさか悪い便りではあるまい。」彼女はいつもの新聞社の報酬に関する書状と思ったのだろう。「いえ、心配するな。あなたも名前を知っている相沢が、大臣とともにここに来て私を呼ぶのだ。急ぐことと言って今から(来いと書いてある)。」
かわいいひとりっ子を遠くへ出す母もこうは気をつかうまい。「大臣にお目にかかることもあろうか」と思ったからであろう、エリスは病気を押して起きあがり、ワイシャツもたいへん白いのを選び、丁寧にしまっておいた「ゲエロック」という二列ボタンの服を出して私に着せ、ネクタイまでも私のために自分の手で結んだ。
「これで見苦しいとはだれも言うことができまい。私の鏡に向かってご覧なさい。どうしてこのように面白くない表情をお見せなさるのですか。私も一緒に行きたいのに。」少し様相をあらためて、「いえ、このように服を改めなさったのを見ると、何となく私の豊太郎様とは見えない。」また少し考えて、「たとえ富貴になられる日はあっても、私をお見捨てなさるまい。私の病気は母のおっしゃるようにならなくとも。」
「何、富貴だと。」私は微笑した。「政治社会などに出るような望みは絶ってから何年経ったのだ。大臣には会いたくもない。ただ長い間別れていた友にだけは会いに行くのだ。」エリスの母が呼んだ一等の辻馬車は、車輪の下にきしむ雪道を窓の下まで来た。私は手袋をはめ、少し汚れたコートを羽織って、手を通さず、帽子を取ってエリスに接吻をして建物を下りた。彼女は凍った窓を開け、みだれた髪の毛を北風に吹かせて私が乗った車を見送った。
私が馬車をおりたのは「カイゼルホオフホテル」の入り口である。門番に秘書官相沢の部屋の番号を聞いて、しばら踏み慣れない大理石の階段をのぼり、中央の柱に「ブリユツシユ」をおおったソファーを据えつけ、正面には鏡を立てある控えの間に入った。コートをここで脱ぎ、廊下をつたって部屋の前まで行ったが、私は少し躊躇した。同じ大学にいた頃に、私が品行の方正なのをたいへん褒めていた相沢が、今日はどのような顔をして出むかえるだろう。部屋に入ってお互い向き合ってみると、姿は昔に比べると太ってたくましくなっているが、以前と変わらない明るい気性で、私のあやまちもそれほどまで気にかけないと見える。別れてから後の様子を細かく話すにも時間がなく、引っぱっていかれて大臣にお目にかかり、頼まれたのは、「ドイツ語で書いてある文書で、急を要するものを翻訳せよ」とのことだ。私が文書を受け取って大臣の部屋を出たとき、相沢は後から来て私と昼食をともにしようと言った。
食卓では彼が多く質問して、私が多く答えた。彼の人生はだいたい平凡でスムーズだったが、不運で数奇なのは、私の身の上であったからである。
私が胸中を開いて物語った不幸な経歴を聞いて、彼はしばしば驚いたが、なまじ私を責めようとはせず、かえって他の平凡な先輩たちをののしった。しかし物語が終わりのとき、彼が顔色を糺して忠告することには、「この一連のことは、もともと生まれながらの弱い心から出たのだから、今更言っても仕方がない。とはいえ、学識があって、才能があるものが、いつまで一人の少女の情にわずらって、目的のない生活をするのだろうか。今は天方伯もただドイツ語を利用しようという心づもりだけだ。私もまた伯が当時の免官の理由を知っているために、無理にその先入観を動かそうとはせず、伯が心中で『(私を)事実を偽ってえこひいきする者だ』などとお思いになられるようなことは、友人として利益がなく、私の損だけである。人を推薦するにはまずその能力を示すのが一番である。これを示して伯の信用を求めろ。そしてあの少女との関係は、たとえ彼女に真心があったとしても、かりに男女の交際が深くなったとしても、人材を知っての恋ではなく、慣習という一種の惰性によって生まれた交際である。意を決して別れろ。」とのこと。これがその言葉のあらましだった。
広い海に舵を失った船乗りが、遠くの山を見渡すようなことは、相沢が私に示した将来の方針である。しかし、この山はやはり濃い霧の中にあって、いつ行き着くのかも、いや、はたして行き着いたとしても、私の心の中に満足を与えるのかも定かではない。貧しい中にも楽しいのは今の生活、捨てがたいのはエリスの愛。私の弱い心には思い定めるような理由がなかったが、しばらく友人の言葉に従って、この交際を断とうと約束した。私は「守るところを失わまい」と思って、自分に敵対する者には抵抗するけれど、友人に対して「嫌だ」とは答えられないのが常であった。
別れて出ると、風が顔を打った。二重のガラス窓を厳重に閉めて、おおきな暖炉に火をたいている「ホテル」の食堂を出たのだから、薄いコートを通り抜ける午後4時の寒さは特別堪え難く、肌が鳥肌が立つとともに、私は心の中に一種の寒さを感じた。
翻訳は一晩でやり終えた。「カイゼルホオフホテル」へ通うことはこれよりしだいに頻繁になっていくが、初めは伯の言葉も用事だけであったが、後には最近の故郷(日本)であったことなどを挙げて私の意見をたずね、機会あるごとに私が道中で人々の失敗があったことなどを話して、伯はそれをお笑いになった。
『舞姫』第七段落重要箇所
いかがでしたでしょうか。
第七段落で特に重要な箇所は次の通りです。
・「明治二十一年の冬」と具体的に年号を示しているのはなぜでしょう?
→エリスが妊娠したという衝撃的な出来事があった時だから。
・「いぶかりつつも開きて読めば」とありますが、なぜ「余」は不審に思ったのでしょう?
→手紙の差出人の相沢は日本にいるはずなのに、切手がドイツのもので、消印がベルリンになっているから。
・「何、富貴。」は、どういう気持ちで言ったのでしょう?
→豊太郎に捨てられるのではないかという不安から発したエリスの言葉をはぐらかし、本心を見つめる勇気のない自分をもごまかそうとする気持ち。
・「不幸なる閲歴」とは、どのようなことでしょう?
→エリスとの交流をきっかけに免官となり、貧しい生活を送っていること。
・「相沢が余に示したる前途の方針」とは、どのようなことでしょう?
→語学の才能を示して大臣の信用を求めることとエリスとの関係を断つこと。
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森鴎外『舞姫』の現代語訳と意味の解説8